真理のありか

いったい言葉というものは、口から吹き出す単なる音声ではない。言葉を口からだすものは、何事かを主張しようとするのである。ただ、その主張しようとする内容が、人によって異なり、一定しないところに問題がある。
もし言葉の内容が一定しないままに発言されたとすれば、その言ったことが、果たして言ったことになるか、それとも何も言わなかったことになるか、わかったものではない。
たとえ自分では、単なる雛鳥のさえずりではないと思っていても、それとの区別があるのか、ないのか、あやしいものである。
それでは唯一の真理であるはずの道は、何におおいかくされて、真と偽の区別を生むのであろうか。言葉は何におおいかくされて是と非の対立を生むのであろうか。もともと道というものは、どこまで行っても存在しないところはなく、言葉というものは、どこにあっても妥当するはずのものである。それが、そうでなくなるのはなぜか。ほかでもない。道は小さな成功を求める心によってかくされ、言葉は栄誉と華やかさを求める弁論のうちにかくされてしまうのである。
だからこそ、そこに儒家と墨家との、是非の対立が生まれる。そして相手の非とするところを是としたり、相手の是とするところを非したりするようになる。もしほんとうに、相手の非とするところを是としたり、相手の是とするところを非としようと思えば、是非の対立を越えた、明らかな知恵をもって照らすのが一番である。
『荘子-斉物論編の一節より』