論理性

元々は、私自身は論理的な方が好きな人間で、ノリ重視の感覚人間はかなり嫌いな方だった。
でも、今ではそうでもない。
以前は90%以上の確率で、感覚人間は嫌いだったのだが、最近はその確率がかなり下がってきている。(大体60%ぐらいか)

「物事、論理的であればいいとは思わない。」
とか言うと、既知の人間には「丸くなったな」とか言われそうだが、その逆である。
考え方は、高校以来この方、ほとんど変わっていない。
論理的、感覚的であるだとか、沈着冷静、感性のあるがままであるだとか、そういった一見対立するように見える事、これらの事を「二項対立」という。
「二項対立」と書かれているが、これは同位の対立ではなく、ヒエラルキーな構造を持つ対立なのである。
で、重要なのは、この片方がある一方より優れているという考え方は、西洋を通して、この日本に輸入されてきた。
例えば、西洋的、東洋的であるだとか、論理的、感情的であるだとか、イデア、事物などだ。
プラトンから始まるこのイデア的思想に、現代思想はメスを入れている。
論理的と言うだけで、感情的より優れているという意味合いが暗黙裏に考えの中に流れている。
もっと言うなら、そう思考してしまうようなメカニズムになっている! (:idea:ポイント)
と現代の哲学者はいう。

しかし、イデアを語るプラトンですら、実際に見聞きするのは、神の声ではなく、現実の出来事である。
イデア自身は、現実の出来事があるからこそ規定出来る。
完全なる属性とは、不完全なる属性があるからこそ、区別出来る! (:idea:ポイント)
つまり、ある片方が、もう一方の性質を規定しているのである。

今まで受け継がれてきた思想は、デカルト以来二元論で語られる事が多かったが、かならず優性な要素と劣性な要素を常に孕んでいた。(イデア、主知主義、絶対精神などなど)

先に述べた、論理的、ノリ重視と言った言葉その物が、今までの観念に囚われていたに過ぎないのだと、考えさせられます。
言葉とは、恐ろしい物で、思考している事柄と思考される言葉は、別(同一ではない)なのに結びつけられてしまう「強制力」を持っています。
そして、言葉を使う事によって、共通の理念を得られるという幻想(それも「強制力」だ!)もあるのです。
この「強制力」を駆使して、現代は成り立っていると言えます。
しかも、この強制は、自発的な服従を誘います。(「強制力」に従う事によって、メリットが得られるかの様に我々を誘発する。)
例えば、資本主義は、多数決などで物事を決定するケェスが多いですが、「これは合意のテロルである。」という哲学者もいます。

私は、「人間同士が一生分かり合えない」そう言っているのではありません。
物事のあり方、そのものをもう一度問い直す。
そんな時期に現代は来ているのかも知れません。