友人 S の死

先週、友人が突然亡くなった。

詳細は不明であるが、葬式 (正確に言うと、告別式) には出る
事にした。高校時代からの付き合いである。出席しないわけに
はいかない。事は急を要する。朝の 08:30 頃連絡があり、式
は 11:00 だと言う。式場までの距離もそこそこある。しかし、
こういう急な出来事ほど、私は行動が早いと自負している。悲
しんでいる暇はない、即行動開始である。

土曜の朝、突然電話が鳴る。家の電話が鳴るのは至極珍しい。
何事かと聞いてみると、友人 S のおばさんが電話をかけてき
た。私は、外部連絡用の電話番号については 050 の IP 電話
を公開しているので、たまたま連絡がついた様だ。友人 S の
おばさんの認識では、東京に転職したままになっていたらし
い。まぁ、何の連絡も取っていなかったので、そうかもしれ
ない。ちなみに、IP 電話は引っ越しをしても、電話番号は変
わらないのである。

友人 S はこちらに引っ越してきてから電話で話したきりであ
った。確か 7 月の初旬頃であろうか。その前は、引っ越し前
の電話で、6 月中旬。その前は、千葉某所に遊びに行った様
な記憶がある。これが、去年だったような、今年だったよう
な…曖昧なところだ。ただ、その時食った海鮮丼が妙に美味
かった事だけは、なぜか鮮明に覚えている。
何はともあれ私に連絡がつき、話を聞いてみると、突然亡く
なった。告別式に来て欲しい。友人 S の (親しかったであろ
う) 友人がいれば連絡をして欲しいと言うような旨の連絡で
あった。

私自身は、前日終電まで会社の営業 T の送別会で飲んでいた
のだが、問題無く式に参加する事を連絡しておいた。

とりあえず、友人に連絡するも、連絡つかず。しょうがない
ので、自分だけでも行く事にする。少なくとも、高校連中の
中では、私が一番深い仲であったと勝手に自負しているから
だ。

とりあえず、時代は IT と判断し、メールを送付。実は、この
メール以前葬式を行った際に、受信したメールの使い回しだっ
たりする。しかしながら、文章は端的で明瞭、誠に的を射た内
容であったので、当時学生ながら感心したのを覚えている。と
言うわけで、今回拝借させていただいた。

身支度を調えながら、友人 S の事を考えていると、妙な使命
感と共に、この式には絶対に参加しなければならないと言うよ
うな感情が芽生えてくる。私は、無信心なので参加したから、
友人 S がうかばれるとかそう言った事は考えないタチなのだ
が、自己満足に近い感情かもしれん。

まぁ、そんな事を考えながら、コンビニで香典袋と金をおろ
し準備を整えていると、高校の友人から連絡が入る。参加は
難しいとの事。その後、電車で移動中、別の友人から連絡が
入る。参加は難しいとのこと。まぁ、8:30 連絡で 11:00 式
場はさすがに厳しいだろう。独身で暇な私ぐらいかもしれん。

さて、タクシーに乗ると、式場まで直行とのことだったので
説明すると、その通りに行ってくれた。

式の内容は、以前家の祖父が行った内容とほぼ同一で、何度
経験しても儀礼的に感じる。ただ、両親がマイクを取って息
子について語った時だけ、非常に胸を打つものがあった。泣
きそうになるが、泣かなかった。なかなか泣かないタチなの
である。私は、他人に感情としての涙を見せるのが恥ずかし
いだ とか、ぐっと堪えるものだ とかそんな事を考えてしま
うのである。

それと、告別式には花が飾られているが、これを見るとその
人の大凡の社会的な位置付けが分かる。と勝手に思っている。
だからどうという事はないが、生きてきた証としての価値ぐ
らいはあるだろう。人の死は、あくまで個人的なものだと思
うので社会的な立場がどうであれ、あまり関係無いと私は考
える。

棺を霊柩車に載せる前、友人 S のおばさんが近況について話
してくれた (多くの参加者の中で、私だけに)。と言う事から
推測すると、やはり私は、友人 S にとって重要な人間だった
のだとも思えた。光栄な事だ。

最後に、棺桶を霊柩車へ運ぶ際に友人として参加した。

火葬場までは、行かなくて良いとその時言われたので、行か
なかった。まぁ、私の祖父の葬式でも身内だけだったし、そ
う言うものだと思う。ちなみに別の葬式では、そうではなく
関係者が火葬場まで付き添いをしたりしていた。

葬式は、小さな人生劇場だと私は思っている。

それ以来、私自身どうも調子がおかしい。志半ば? で人生の
終着駅についてしまったとしたら、その人はそれが生きてい
る上で全てになる。それでその人が満足したか、どうかなど
という点は一切考慮されていない。無情なものだ。残された
人間は、その日以降、また別の人生を歩む事になる。

私自身、友人の死という出来事を上手く解決できていないか
らだ。いや、これは万人が納得する事実など無く、解釈する
事しかできないのかもしれない などと考える。まさに、ニー
チェの名言通りだ。哲学者は、頭が良い。

友人 S は、すこし天然ボケ気味で尚かつ性格は直線的で、何
とも言えない味わいのあるキャラであった。働き始めてから、
仕事に不満は多かった様だが、プライベートは充実していた様
に私は感じた。

コンピュータも時代がこのような万人が使用する熟成期に入
ると、”人の死” すらメールで送られてくる と言うような事を
感じた。私も 30 になるので、人の運命や人生すら、デジタ
ルデータとして運ばれてくるのだなぁ となんだか感慨深いも
のを感じている。becky のメールのデータは財産とも言える
のかもしれん。

自分の問題に帰ってくると、哲学の本を読み直すという結論
に至った。と言うわけで、今日随分前から読もうと思ってい
たプラトン『国家』を買ってきた。上巻しか売ってなかった
ので、上巻だけ買った。下巻はまた探して買えばいい。

そんなことを、つらつらと考えながら私は今日も生きている。


友人 S の死」への1件のフィードバック

  1. コメントとしてはだいぶ久しぶりです。
    文面にある高校の友人の一人です。

    出向いてもいない私がブログにこの件を書くのも
    不謹慎かと思い、コメントにて。

    受け取ったメールを見た時は、ただ驚きました。
    悲しいなどという感情ではなく、驚くだけでした。

    だいぶ自分の中で整理されてくると
    私もいろんな感情が生まれてきましたね。

    失って初めて気づくというか、
    もう一度会って話でも聞きたかったとか。
    (5年くらいは会っていない)

    まぁ、頻繁に会っていてもそれはそれで
    別の後悔が生じては来るんでしょうが…

    同学年の友人が死ぬという
    そのことが異常なことではなくなるほどに
    年をとったということなんでしょうね。
    (自分自身もその立場になっても全然おかしくない)

    こういう感情を幾度も経験していくことになるのか。

    急なことでもあり、告別式に出ることができず
    申し訳なく思っています。

    ご家族の方も落ち着いてきたころに
    一度実家にご挨拶だけでもと思っています。

    それではまた。

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