オスカー・ワイルドの長編小説。
1ヶ月ぐらいかけてやっと読破した。たらたらと読んでいたせいもあってえ
らく時間がかかってしまったなー。
ちなみに、オスカー・ワイルドは自分の憧れの作家である。芸術の為の芸術
であるだとか、耽美主義とかデカダンスだとか。出てくる台詞が、辛辣で皮
肉なんだけど、現実を残酷なまでにえぐり取った巧みな表現が魅力の作家で
あると思っている。下品 (シモネタ) で無いのもポイントが高い。
また、芸術というものに対し信仰的でむしろ宗教的ですらあるように感じる。
普段の日常の生活が如何に浅ましく、愚かで、くだらない出来事であって、
芸術はその日常 (現実) と相容れない絶対的な孤高の美しさが存在するとい
う様なスタイルを修験者の如く追求している。その妥協しない姿は、ある種
美しく真摯と感じる時すらある。
さて、話の方は、主人公 ドリアン・グレイの人生を綴ったもので、画家の
バジルがドリアン・グレイの肖像画を描くシーンから開始される。また、
ヘンリー卿というまさに耽美主義を体現化したかのような人物が登場し、
ドリアン、画家バジルに様々な甘言をそそのかす。
このバジルとヘンリー卿の対比が面白く、考えさせられるものがある。バ
ジルは芸術の本質の象徴で、ヘンリー卿はうわべだけの快楽的な美の象徴
となっている。穢れを知らないドリアン・グレイは、バジルの事を退屈だ
と思い、ヘンリー卿に魅力を次第に感じるようになる。
青年の薔薇のように白く美しいドリアンが、ヘンリー卿に感化され、次第
に快楽と悪徳の限りを尽くすようになる。そこには、物欲、愛欲、支配欲、
麻薬的な甘美な魅惑、伯爵夫人とのロマンス、衝動的な殺人 (しかも捕ま
らない) 等々、現実のありとあらゆる誘惑が記載されているように思えた。
年代がいくら経っても現実のドリアン・グレイは、美しいままで絵に描か
れたドリアン・グレイは醜悪でいやらしい笑みを浮かべるようになってい
く。
そんな中様々な事をやり尽くし、ドリアンは善人になろうとするが、それ
もヘンリー卿の警句によって、一蹴されてしまう。
善人になろうとしているのは、今まで経験した事の無い事を実施し、新し
い感覚を得たいという快楽を満たしているにすぎない。というような内容
であった。
最後に、年を取らず見目美しい現実のドリアン・グレイは今までの人生の
元凶である醜悪で邪悪な表情をするドリアン・グレイの肖像と決別するべ
く、ナイフで突き刺そうとする。なぜか絵画にナイフを刺したにも関わら
ず自分自身にナイフを突き刺し、老化して死んでしまう。絵画の方は、若
い頃に描かれたドリアン・グレイの肖像に戻る。
快楽はおそらく代替可能であるが、個人の死は代替不可能である。最後に
個人の死ですらも、芸術として昇華してしまう辺りは、ワイルドらしい結
末であったのではないかと思われる。
最後に、ヘンリー卿の下記の一句は、大変良い台詞だと思った。
物事を楽しむには、霞みがかかっている方が良い。現実として明らかにな
ってしまうと、とたんに面白味が無くなってしまう。