上手く纏まらなかったが、少し前にせっかく書いたので投稿。
ボードゲームの “長考” について少し考えを書いてみる。ちなみに、
私はどちらかというと “長考” をしてしまう方の人間ではある。
“長考” をするプレイヤーがいると、良く言われるのは “皆の時間を
奪っている” という事である。これは、本当にそうなのか甚だ怪しい。
と云うのも、例えばあるゲームがあるプレイヤーにとって “良い時間”
を共有出来たと考える場合、単にゲーム内のシステム上の手続きを行
えば楽しかった と云う事にはならないと私は考えるからだ。
つまり、分かりやすく書くとまったく人の考えが反映されることなく
一定の時間だけ手続きをすれば終わってしまうゲームがあるとしたら
それは単なる作業であり、”時間を浪費した” と考える人が大半だと
思うからだ。と言う事は、”互いに考えた事が反映されること” が、
“良い時間” となる可能性を秘めているといえる。
では、長考をしているプレイヤーがその場に存在してしまっている
場合、”皆の時間を奪っている” と考えるプレイヤーが出てきてしま
うのだが、私は以下のように “長考” を考える。
1 つに、そのゲームに対して真剣に向かい合っている。なので、雑に
プレイをしてゲームの勝敗を投げているプレイヤーとプレイするより
はずっと良い。
1 つに、ゲームとはインタラクション。もっと云えばある考えとある
考えのぶつかり合いである。ぶつかり合いという表現が適切でない可
能性もあるが、各プレイヤーは基本的に自分が正しいと思った選択を
行い、ボードやカードに反映させる。それがボードゲームである。力
はいらないし、手続きの巧みさ(TV ゲームのアクションゲーム等の操
作の巧さ)は基本的には必要ない。ボードゲーム上では “考えた事” が
反映される事のほとんどなのである。なので、考えに十分時間をかけ
るというのは、可能性として考えられる。
1 つに、ボードゲームは長考してしまう仕組みを内在している。慣れ
ないうちは基本的にボードゲームはパズルであると私は考えているの
だが、あるパズルの解法が分かるまではそれなりに考えてしまうもの
である。慣れてしまえば、あとは作業となり時間が圧縮できる。もっ
と云うと、パズルを解くのが早いプレイヤーはプレイが早いし、パズ
ルを解くのが遅いプレイヤーはプレイが遅くなってしまう。仕方ない
部分を秘めている。
1 つに、これはやや過激ともいえる意見であるが…長考を非難する
プレイヤーはステレオ的に否定している。なんらかの狂信的な宗教で
あるかのように 「長考 = 悪」と考えている節がある。理由としては、
上記の “皆の時間を奪っている” だ。ただ、先に述べたとおり考えた
ことが反映されてゲームになるのだから、そのプレイヤーが考えるこ
とを放棄していわゆる “雑なプレイ” となってしまった場合、その場が
“良い時間” を共有出来たという結果になるかどうかは怪しくなってし
まう。
まぁ、こんな所か。たしかに、”長考” は迷惑さを孕んでいるのは否
定できない。自分の手番以外に次の方針を考えず、手番が来てから考
え出すプレイヤーは考え物だ。しかも、手続きになれていないなら時
間がかかってしまうのであるからなおさらだ。ただ、”長考” をする
プレイヤーが存在することによって “良い時間” を共有出来たとなる
可能性もある。ボードゲームは、先に書いたとおり考えたことが反映
されるゲームなのだから。
では、長考しないように訓練が出来れば迷惑がかからないのか? これ
もなかなか難しい。長考しない様に訓練する定跡書や戦法書がボード
ゲームの世界にはなぜか存在しないからだ。なので、あるジャンルの
ゲームに対して苦手な思考を求められる場合、時間がかかってしまう
ケースがままある。
「長考 = 悪」なのか「早指し = 善」なのか。なら、早指し出来る様
に案内や提案はするのか? 「長考 = 悪」と考えるプレイヤーはそう言
った解決方法を提示しないケースが多い。時間が勿体ないから、”早く
打て” である。これはなかなか言われる側も辛いものである。しかも、
確実に場が悪くなる。
ちなみに、私は “長考” に対しては寛容な方だとは思う。なぜなら自分
も長考してしまうケースがあるからだ。
さて、互いに慣れていないゲームでボードゲーム初心者の人が “長考”
してしまう場合はほとんどの人は寛容だとは思う。ただ、手慣れた熟
練プレイヤーが “長考” を行った場合、非難の対象になりがちだ。初心
者なら良くて熟練者なら良くない というのも良く分からない所ではあ
る。
あまりまとまりもないが以上とさせて頂く。